サラエボから日帰り旅 ヴィシェグラード→セルビア:モクラ・ゴラ、ドルベングラード

ドリナの橋

*2024年12月現在の情報です。

映画監督エミール・クストリッツァの映画と音楽が好き、彼の政治的考えに共感できるので

季節外れとわかっていましたが監督ゆかりのドルベングラード日帰りツアーに参加してきました。

ヴィシェグラード

ヴィシェグラードは、サラエボから120km、ボスニア・ヘルツェゴビナの東部に位置する町で、

セルビアとの国境に近い歴史・文化・自然に恵まれた観光地。

スルプスカ共和国(セルビア人主体の自治区)に属し、人口:約5,000人(戦前は約20,000人)。

世界遺産「メフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋」で知られ、歴史的にも文学的にも重要な町です。

メフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋(世界遺産)

ドリナの橋2

1571年建設。ヴィシェグラードのキリスト教徒の家に生まれ、

デヴシルメで徴用されてイェニチェリ(常備軍歩兵)になり、そこからオスマン帝国の大宰相にまでなった

メフメド・パシャ・ソコロヴィッチが建設を命じた歴史的な橋。

オスマン帝国の有名建築家ミマール・スィナンによる設計で2007年世界遺産に登録されています。

イヴォ・アンドリッチの小説『ドリナの橋』(ノーベル賞受賞作)の舞台となった橋で

通称ドリナの橋と呼ばれています。(全長180m、11のアーチから成る美しい橋。)

あらすじ:ソコロヴィッチの幼少時代の実話から彼が暗殺されるまで描かれ、その後も美しい石橋は長く世に残り

 人々の暮らしや時代の流れを見つめ続けることになる。

 大洪水や悲恋に打ちひしがれ橋から身を投げた娘の話もあり交通の要衝となった橋の両岸には町が栄えていく。

WWIでオーストリア軍が撤退時に爆破し退却。WWⅡでも被害を受けましたが再建されています。

そしてこの橋の歴史はこれだけでなくヴィシェグラードの虐殺の舞台にもなってしまいました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~1995年)の初期に、

ボスニア・セルビア軍およびセルビア人準軍事組織は

ボスニア系ムスリム(ボシュニャク人)住民に対し大量虐殺を行いました。

ドリナの橋では多くのボシュニャク人が拷問を受け、銃撃され、

ドリナ川に投げ込まれ数百人がこの方法で殺害されたとされています。

ヴィシェグラードの虐殺は、スレブレニツァ虐殺(1995年)と並ぶ

ボスニア紛争の重大な戦争犯罪として記憶されていて

戦後町の民族構成は激変し、今も多くのボシュニャク人が戻ることができていません

ヴィシェグラードの虐殺をテーマにした映画↓

映画『フォー・ゼア・ウィー・リヴ』(For Those Who Can Tell No Tales, 2013年)

For Those Who Can Tell No Tales (2013) - IMDb

日本では観れない?

アンドリッチグラード(石の町)

アンドリッチの像 アンドリッチグラード

2014年、映画監督エミール・クストリッツァ

ノーベル文学賞作家イヴォ・アンドリッチ旧ユーゴスラビア出身の作家・外交官で、1961年にノーベル文学賞を受賞。

彼の作品は、バルカン半島の歴史や民族の対立、オスマン帝国やオーストリア統治下のボスニアの社会を描いている)を称え、

オスマン帝国オーストリア=ハンガリー帝国現代の影響を反映した

建築様式を用いて手がけた文化施設。

正教会、劇場、博物館、映画館、レストラン、カフェが集まっていますが

開店していない店が多く閑散としていてここで時間を潰すのはもったいない感じがしました。

完成から10年も経っているのに・・あまり成功しているようには見えませんでした。

カフェの支払いは現金のみ。

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ドブルン修道院(セルビア正教会)

ドブルン修道院

ヴィシェグラードから車で約15分、1343年創建のセルビア正教会の修道院。

山奥深くにひっそりと佇む修道院。美しいフレスコ画が残っています。

観光シーズンにはモクラ・ゴラからの観光列車も運行。

司教さんも雪かきをしていた職員のおじさんもとても親切、

日本人だと言うと喜んでくれました。

セルビア人もボシュニャク人も遠い国の人にはフレンドリー。

ドブルン修道院

ドブルン修道院2 シャルガン観光列車と

セルビア国境

杉の産地

ドブルン修道院から間もなくしてセルビアに入国します。

スルプスカ共和国(セルビア人自治区)から入ったので特に何か言われることもなく

ガイドさんがパスポートを管理官に手渡し、すぐにスタンプを押されて戻ってきました。

ガイドさんはボシュニャク人だったので何か意地悪されるかも、

なんて考えていましたが問題ありませんでした。

スルプスカ共和国道端

 

 

 

 

スルプスカ共和国内でよく見かけるスローガンらしきもの

サラエボのボスニア連邦側からスルプスカ共和国に入ると道路標識も全てキリル文字になるのですが、

ガイドさんはキリル文字の教育を受けていない世代なのに理解できているみたいで不思議。

ちなみに旧ユーゴ時代はどちらも使用されていたので年齢が上の世代はどちらもOKみたいです。

モクラ・ゴラ

モクラ・ゴラ1

モクラ・ゴラ(湿った山)駅は、セルビア西部の観光名所であるシャルガン峠の

シャルガン8鉄道(Šargan Eight Railway)の起点となる駅です。

歴史

かつてベオグラードとサラエボ(もっと先のアドリア海まで)を結んでいた狭軌鉄道の一部で、

建設は第一次世界大戦中に始まり、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアを結ぶ計画でした。

オーストリア人は建設をスピードアップするために多数のロシア人とイタリア人の捕虜を動員しました。

1912年ボスニア側の終点であるドニェ・ヴァルディシュテ駅と

セルビア側の終点であるウジツェ駅が結ばれましたが

1916年、トンネルの掘削中に爆発が起こり、天井が崩落して作業員全員

50人から200人のイタリア人とロシア人の捕虜が死亡しました。

その後、オーストリア人は鉄道建設の作業を中止したものの

1921年に新たに成立したセルビア人、クロアチア人、スロベニア人の王国で再開。

シャルガン8

このとき、「8」番線が設計され、300メートルの降下を、8の字に曲がった線路で克服しました

(線路の長さは15.44キロメートルで、曲がっているため、一部の区間では列車が同じ地点を2回通過。)

そして作業員を受け入れる運用センターと3本の仮設ケーブルウェイが建設され、

地域の約500人が鉄道で雇用され周辺の村々は繁栄しました。

1990年代の紛争で廃止されましたが、観光目的で2003年9月1日に近代的な路線が復旧

ヴィシェグラードへの延伸は2010年8月完了しました。

シャルガン8  列車

運行情報

モクラ・ゴラからドブルン修道院を経由して

ヴィシェグラードへ向かう観光列車は、「チェルヴェナ・ズヴェズダ(Crvena Zvezda)」と呼ばれています。

この列車は、セルビアの映画監督エミール・クストリッツァが監修した

プロジェクトの一環として運行されています。

運行日:主に夏季(5月~10月)の週末や祝日 チケットはモクラ・ゴラ駅やヴィシェグラード駅で購入可能

モクラ ゴラ 2

モクラ ゴラのホテル

駅構内には、鉄道関連の展示やレストランがあり、訪問者は列車の待ち時間や観光の合間に

食事や休憩を楽しむことができます。

また、モクラ・ゴラ村内には宿泊施設Konačište Osmicaもあります。

今回残念ながらオフシーズンで観光列車に乗ることはできませんでした。

(観光列車体験は他の人がブログでアップされているのでそちらを参考になさって下さい。)

でも日常と違う大雪の中、雰囲気あるカフェでお茶できたこと、写真撮影できたことは満足でした。

ドゥルヴェングラード(Drvengrad)(木の町):別名クステンドルフ(Küstendorf)

クステンドルフ

映画監督エミール・クストリッツァ「自分の理想の村」としてプロデュースした

クステンドルフ(Küstendorf)はユニークな宿泊施設です。

伝統的なセルビア木造山岳建築の村で、全体がホテルやレストラン、映画館などの施設を備えており、

クストリッツァの映画や作品に関連したオブジェや展示が見られ、特別な滞在体験を提供しています。

又、毎年1月に「クステンドルフ国際映画祭」が開催され、世界中の映画監督や俳優が訪れるそうです。

クステンドルフ

クステンドルフ教会 クステンドルフ クリスマス

こちらも大雪でせっかくの木造建築をじっくり見学できませんでしたが

クリスマスデコレーションを楽しめて良かったです!

施設見取り図

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エミール・クストリッツァ監督とは

1954年旧ユーゴスラビアのサラエボで生まれる。

父は情報省職員、母は裁判所事務官というモスリムの家庭で育つ。

18歳でプラハに留学し卒業後サラエボで映画製作をする。

1990年にアメリカに移住。アメリカにいる間にボスニア紛争勃発。

自宅の略奪や父親の死を経験する。

祖国と故郷を失った彼はもともと厳格なイスラム教徒ではなかったこと、

そして故郷の政治と意見の不一致により

セルビア国籍を取得し自分の手で理想の故郷を作りたくて

このドルヴェングラードに村を作ったとのこと。

彼の映画作品は直接政治批判をするのではなく、

ユニークな方法で婉曲的に時代の問題を表現していること、

セルビア音楽を多用し、バルカン半島の伝統文化習慣を伝えてくれていること、

動物が多用されていること、笑いが含まれていることなどが私の好きな理由です。

クステンドルフ

 

 

 

 

 

ボシュニャク人としてではなくセルビア人として生きることにした背景には

セルビアが諸外国から一方的に悪玉にされたことへの憤り、

NATOによる不当な介入(特にコソボ問題)等に反対することがあるのではないかと想像します。

エミール・クストリッツァ監督は自分の映画音楽を

自らのバンド(No smoking オーケストラ)で演奏しています。

セルビア音楽はその歴史からハンガリーの影響、ロマの影響、オスマン帝国の影響を受けていて

監督の音楽にはその特徴が上手く醸し出されていると思います。

また、この動画は空撮も含まれ夏の素晴らしいクステンドルフの風景も見れるので

訪問に興味のある方にはお勧めです!

ツアー情報

当初viatorのサイトから申し込みました。(16000円ほど)

が、こんな時期に行きたい人はいないのか、申し込んでも現地旅行会社から申し込みを拒否されました。

仕方なくGet your guideから申し込み。22195円でした。

(価格は変動制で季節、参加人数によって変化。今回日本から申し込み、オフシーズン、

しかも1人参加だったので一番高い料金だったと思います)

現地手配会社はMEET BOSNIA で 旧市街にオフィスがあり、集合場所が明確なので安心できます。

スタッフも親切でした。

当日1人参加のはずでしたが飛び込みでトルコ人男性が加わりました。

ガイドさんと二人だけ長時間ドライブはつらいのでこの面白いお医者さんが加わってくれてよかったです。

そして料金は現地で申し込んだ方がかなり安いです。(75€ 約12000円)

MEET BOSNIA

参加人数にもよると思いますが、同じ日のモスタル行ツアーはミニバンでしたが

私たちは2人参加だったのでガイドさんの普通乗用車で行きました。

この地域では大雪でもチェーンはしないのでしょうか、どの車も使ってない……”(-“”-)”

ガイドさんは安全第一で、時間がかかってもゆっくり運転してくれたのでそこは大丈夫でした。

この旅行会社は無料でサラエボウォーキングツアーを開催しています。荷物預かりもしているもよう。おススメ!

オフィスにトイレはないので近くのカフェ:真っ白いBrunch Saで借ります(無料)

ガイドさんの話:ボスニアについて

ガイドのヤスミンさんは38歳。

ご両親は父親が66歳母親が62歳と言っていたので旧ユーゴを経験した世代です。

紛争当時はご本人は2,3歳でスイスに疎開していたとのこと。

(ボスニアからヨーロッパへの難民はドイツ、フランス、イタリアが多かった模様。)

一つ屋根に2つの学校に関して聞いてみると本当で、「それだといつまでも民族融和ができないのでは?」

と聞いたら親の育て方で価値観が異なるそう。親が過激な民族主義だと子供もそうなってしまう。

私が見るところ彼は排他的ではありませんでしたが、やはりガイドをしていても

決してセルビア正教会には一歩も足を踏み入れませんでした。

日本人ならお寺も教会もモスクも入ってしまいますけど。

日本人は宗教に民族的アイデンティティーを求めませんがこちらは違うと感じます。

「旧ユーゴ時代の方が平和でよかったのでは?」との問いに対しては

「親世代はノスタルジー感で懐かしんであの頃は平和で良かったという人もいるけど

社会主義時代は重労働で残業も多く、又共産党員でないと発言の自由がなかった(チトーの秘密警察ウドバのこと)

からやはり今の時代がマシ」とのことでした。

日本の彼と同世代の人と比べると別の日のガイド:マックさんもそうでしたが

自国の歴史を本当によく知っています。そしてボスニアの抱える問題に話題が行くと

堰を切ったように熱く語ります!!

決して他民族を批判しているのではないのですが。

親世代とともに時代に翻弄されてきた人達、思うところが山ほどあるんだな感じました。

今でもボスニア紛争でのPTSDに苦しんでいる人が多数いるそうです。

どの民族にしてもある日突然、昨日まで仲良くしていた人が襲ってきて

暴行、略奪、レイプ、誘拐、殺人、放火されたら気がおかしくなってしまい

一生心の傷となることは間違いありません。

全て、家族も家も命も奪われる・・想像を絶する体験。

有難いことに私はそのような経験をしていないし太平洋戦争で命を落とした先祖もいません。

戦争とは程遠い環境で生きています。

戦場には行きませんが、このようにまだ記憶が新しい環境に生きている人に話を聞いたり

その土地を見て民族や宗教の問題を考えたいと思ってバルカン半島を旅しました。

*秘密警察 ウドバ(旧ユーゴスラビア)

  • 1948年のチトーVSスターリン対立(ソ連との決裂)以降、ソ連型の秘密警察とは異なる独自路線を取った。
  • 多民族国家の統治のため、民族主義者や分離主義者を弾圧。
  • 西側諸国とも関係を持ち、情報活動を展開。

動画

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戦争は情報操作されています。西側メディアだけの情報はあてにならない……がよくわかる本。

この裏側を知ると湾岸戦争、コソボ紛争、ウクライナ戦争、イスラエル戦争のことも

より理解できて自分視点で世界を見れるようになると思います。おススメ↓

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ドリナの橋